ジュラルミン

ジュラルミンとは,アルミニウムに銅とマグネシウムとマンガンが添加された合金である。この合金が開発された経緯とこの合金が最初に適用されたツェッペリン飛行船についてお話をする。(出典等の詳細は「資料室」軽金属「ジュラルミンとZeppelin飛行船」の文献参照のこと)

時効硬化の発見

図1 ウイルム博士
図1 ウイルム博士

ドイツのAlfred Wilm(ウイルム,独ヴィルム)は1901年,Berlin 近郊のNeubabelsbergにある理工学中央研究所(Zentralstelle fuer wissenschaftliche-

technische Untersuchungen)に招聘され,翌年ドイツ兵器弾薬製造会社から真鍮製の薬莢をアルミニウム合金で代替するための開発委託を受け研究を開始した。彼はAl–4%Cu合金を鋼と同じように焼入れして,引張強さ152~225 MPa

,伸び5~7% を得たが,真鍮の代替には及ばなかった。1903 年この熱処理法で特許を申請し(DRP170085)。その後研究を続け,1906 年時効硬化現象を発見した。この発見にまつわる次のエピソードは有名な話である。

図10 Wilm によって論文発表されたAl–3.5%Cu–0.5% Mg合金の室温時効硬化曲線(縦軸:硬度,横 軸:室温時効時間(h))(A. Wilm: Metallurgie, 8 (1911), 225.)
図10 Wilm によって論文発表されたAl–3.5%Cu–0.5% Mg合金の室温時効硬化曲線(縦軸:硬度,横 軸:室温時効時間(h))(A. Wilm: Metallurgie, 8 (1911), 225.)

1906年9月のある土曜日,Al-4%Cu-0.5%Mn合金に0.5%Mgを添加した3 mm 厚みの板材を作成し,520°C の塩浴炉で加熱後焼入れした。Wilm は午後の1 時頃,退出間際の助手のJablonski に硬度の測定を命じて計ったところ,その変化はわずかであった。その続きを翌々日の月曜日に行ったところ著しく増加していることに驚いて,測定器をチェックし実験を繰り返した。その結果,硬さが焼入れ後2 時間まではほとんど変化せずにそれ以降4 日間にわたって増加し,その後一定になることを確認した。この熱処理により,引張強さ390 MPa,伸び20~25%が得られた。1907 年1 月11 日,Al–4%Cu 合金をベースに微量マグネシウム添加の影響を調べ,「2%以下のマグネシウムと5%以下の銅を含むアルミニウム合金で,特にCu 4%にMg 0.25~0.5% を含むアルミニウム合金が効果的」として特許を申請した(DRP204543,1908 年11 月認可)。マグネシウム量2%以下としたことについては,当時アルミニウムの強度を高めるには2%以上のマグネシウム添加が必要なことは,Magnalium 合金に代表されるようにすでに知られており特許も出されていたためである。その後,系統的な実験を行い,「マグネシウムを含むアルミニウム合金の熱処理法」としてD.R.P.244554(1909 年3 月20 日申請,1912 年3 月9 日認可)の特許を取得した。特許請求範囲は「工程の最後に420°C以上に加熱し,少し成形加工する場合もあるが,常温に放置することを特徴とするマグネシウムを含むアルミニウム合金の処理方法」と書かれている。Wilm は先の2 件を含めて4 件の特許をアメリカで取得した。

ジュラルミンの由来

この材料の製造については,1908 年ドイツ兵器弾薬製造会社の姉妹会社であるDürener Metallwerke A.G. でジュラルミン板の工場試作が行われたが,研究所はこの発明に関心を持たなかった。これは彼が特許を申請した1909 年,彼を招聘した研究所長が交替したためで,Wilm の研究は中止となり,Wilm はジュラルミンを自分の手で工業化するために研究所と交渉の上,ジュラルミンの特許を彼の名義とし研究所を辞めた。幸いにもDürener Metallwerke A.G. がWilm の特許の使用権を得て,同社技術役員のR. Beck 博士の協力のもとで工業化に成功した。1909 年Wilm とDürener Metallwerke A.G. の間でこの新製品に対する商品名の相談があり,Wilm は当初ドイツ語で硬いという意味のHart をつけたHartaluminium を提案したが,国際市場を考え,フランス語で硬いというDurを用いてDuralumin にした。Duralumin は地名のDüren から来たとも言われているが,現在のドイツ人の多くはDüralumin(Dürener -Alumin)よりDur-Alumin として理解しているとのことである。Dur が用いられたのはこの合金が初めてでなく,Dürener Metallwerke A.G. の開発した多くの合金のトレードマークとして“DuranaMetalle”がすでに国際的にも認知され用いられていたことも関係していた。

ウイルムの生涯

図3 軽金属学会事務局に飾られているHaas 博士から贈 られたWilm のレリーフ(Haas 博士から石田四郎 教授に贈られたもので,石田教授が当時の軽金属 協会に寄贈)
図3 軽金属学会事務局に飾られているHaas 博士から贈 られたWilm のレリーフ(Haas 博士から石田四郎 教授に贈られたもので,石田教授が当時の軽金属 協会に寄贈)

A. Wilm は1869 年6 月25 日Lower Silesia のHaynau に近いNiederschellendorf で生まれた。父は領地を所有し,母は大きな宝石商の娘であった。1886 年Breslau(現在のポーランドのWroclaw)の王立専門学校(Königliche Gewerbeschule)に学んだ後,Berlin にあるCharlottenburg 工科大学の化学の聴講生となり,特にJulius Weeren 教授の下で理論的でかつ実践的な講義を受けた。彼はまたKönigliche Eisengießerei(王立鉄鋳造工場)で初めて冶金学を習得した。さらにKasselの鉱山局で3 か月の実習に参加してバリウム,ストロンチウム,カルシウムの分離法に習熟した。1893 年11 月1日Göttingen 大学の助手となった。在籍した研究はF. W.Wöhler(1800–1882)が50 年間,研究と教育を行っていたところでその流れを引き継いでいた。1897 年3 月からEssen のTh. Goldschmidt 社で働き,Hans Goldschmidt と一緒に金属アルミニウムで金属酸化物を還元するテルミット反応(aluminothermy 法とも呼ばれる。また,この方法はHansGoldschmidt により発明されたのでGoldschmidt 法とも呼ばれる)を利用して酸化物からCr, Mn, Co, Ni, Ta などの金属を分離することを行った。
1901 年春には,Essen の会社を辞めて,Neubabelsberg にあるStribeck 教授が所長を務める理工学中央研究所に移った。1902 年から,Wilm はStribeck 教授の厚い信頼を受けてアルミニウム合金の系統的な研究を開始した。1906 年,Al-Cu-Mn合金に微量のMgを添加して焼入れすると硬くなることを発見し,特許を取得した。1909 年Stribeck 教授がEssen のKrupp 社に移るために理工学中央研究所を辞めるまで合金成分や熱処理を研究した。Stribeck 教授の後任の所長は粉末の専門家で高強度アルミニウム合金には関心を持たなかったので,1909 年出願の特許については,前述したようにWilm 本人が特許権者となり研究所を辞した。

 

Wilm の晩年についてはドイツのアルミニウムセンター(Aluminium Zentrale)のM. H. Haas 博士が1935~40 年頃に詳しくまとめている。Haas 博士によれば,Wilmは第一次世界大戦後の1919 年,妻と6 人の子供たちとともに鶏を育てることに専念するために生まれ故郷のSilesia の山村に隠遁した。養鶏でもアルミニウム合金で培ってきた方法で採卵鶏,中でも白色レグホーンを改良して名声を得た。その後1937 年8 月6 日,68 歳で亡くなったとのことである。1939年,東京大学航空技術研究所教授 石田四郎先生がドイツに出張した際にHaas 博士から贈られたWilm のレリーフが,先生の遺志により軽金属協会に寄贈され,現在,軽金属学会事務局に飾られている(図3)。

ツェッペリン伯爵

図4 ツェッペリン伯爵(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ferdinand_ von_Zeppelin.jpg)
図4 ツェッペリン伯爵(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ferdinand_ von_Zeppelin.jpg)

有名なZeppelin飛行船はFerdinand Adolf Heinrich August Graf von Zeppelin 伯爵(図4)によって発明された。彼は軍人としてアメリカの南北戦争を視察するためにアメリカに赴き,ミシシッピー川の河畔で偵察用の繋留気球に乗ったことが契機となり,飛行船の開発を始めた。彼の行き着いた飛行船は20 人も乗れる巨大なものであった。彼の構想を実現するために,1890 年ドイツ皇帝Wilhelm Ⅱ世に飛行船建造を進言したが理解されず,1890 年陸軍少将を退役し,彼は全財産を投じて1898 年自ら飛行船建造会社を設立した。

 

Zeppelin の飛行船の基本構造は従来のガス嚢に水素を詰める軟式飛行船ではなく,金属で骨組みを作り,外皮(麻布か木綿布)で覆ってその中に水素ガスを詰めたガス嚢を数個並べるといった硬式飛行船であった。その理由は,

(1)船体を金属の骨組みで作れば,飛行船が大型になっても,また多少ガス嚢がしぼんでも変形しないこと,

(2)水素ガスを数個のガス嚢に分散して詰めれば,その内の1 つに穴が開いてガスが流出しても安全であることであった。船体の骨組みは鉄で作るつもりだったが,重くなることが懸念され,アルミニウムが用いられた。Zeppelin は当時硬い合金と言われている亜鉛アルミニウム合金を採用した。亜鉛アルミニウム合金というのは亜鉛を20%程度含んだ合金のことである。

ツェッペリン飛行船

図5 Zeppelin 飛行船LZ1 のガス嚢とボーデン湖上の格 納庫から離陸する直前のLZ421)(D. H. Robinson: The Zeppelin in Combat, Schiffer Publishing, (1994), 21.)
図5 Zeppelin 飛行船LZ1 のガス嚢とボーデン湖上の格 納庫から離陸する直前のLZ421)(D. H. Robinson: The Zeppelin in Combat, Schiffer Publishing, (1994), 21.)

1900 年6 月,全長128 m,直径11.65 m のZeppelin 第一号硬式飛行船LZ1 *) が完成した。Zeppelin は骨組みをジュラルミンに置き換える1914 年まではこの材料を用い続けた。当時のジュラルミンは同じ重さのアルミニウムに比べて2.5~5倍の強度を持っていたが,1910 年当時,飛行船の桁に必要な断面形状を製造することが困難で,当初,Zeppelin はこのためジュラルミンの採用を拒否した。図5はZeppelin 飛行船LZ1の内部構造とボーデン湖上の格納庫から離陸するLZ4である。正24 角形の筒状でアルミニウムの骨組みの上に羽布を張り,内部に水素ガスを詰めた17 個のガス嚢を収納する構造であった。以後40 年間Zeppelin の飛行船はこの構造様式を踏襲した。

 

組み立てはFriedrichshafen に近いボーデン湖上に浮かぶ格納庫で行われた。これには土地を購入する資金の問題もあったが,湖上では格納庫を回転させることができ搬出や搬入のときに横風を受けにくくすることができるメリットもあった。このLZ1は不幸にも400 m 上昇し,15 分ほどボーデン湖上を飛び回ったところで,異常が生じ,船体が折れ曲がり墜落した。この失敗で,「狂人伯爵」とまで陰口をたたかれたが,それにめげることなく,1905 年LZ2 を建造した。そのころ皇帝は自国の海軍が英海軍に遅れを取っていることに懸念を抱き,空飛ぶ戦艦ともいえるZeppelin 飛行船に期待をかけて国費を投じることを決め,1906 年LZ3,1908 年LZ4が建造された。これらの飛行船の成功とともにZeppelin は一躍「国民的英雄」となった。1908 年9 月,飛行船建造会社の「Zeppelin 飛行船有限会社」をFriedrichshafenに設立し,翌1909 年に世界初の旅客を専門とする商業航空会社「ドイツ飛行船運輸株式会社(DELAG)」をFrankfurt に設立した。

 

*)  L: Luftshiff, Z: Zepplin, LZ はZeppelin 社の機体製造番号。この番号とは別に,第一次世界大戦中は,陸軍はLZ(ただし生産数を秘匿するために30 を加えた数字を用いた),海軍はLで識別した。これに対し,Schuette-Lanz社の飛行船はSLで識別した。

 

イギリスのVickers Company,その後The Vickers Sons &Maxim Ltd.は1909 年,剛性の高い英海軍飛行船“Mayfly”の建造を開始した。1910 年,Dürener Metallwerke 社はジュラルミンを12.75 トン生産したが,そのうち10 トンをVickers社に供給した。しかし,この船は1911 年9 月,試験飛行のため格納庫から移動するときに,操作ミスで真二つに折れてしまった。これはこの合金が「ドイツ製」だからとの疑いをもたれたことで,Vickers 社は,1911 年,Wilm から製造の許諾を得て自らこの合金の生産を開始した。Vickers 社は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガル,イタリアさらにアメリカで製造する権利を有した。

図6 ツェッペリン飛行船骨格の一部とフレームのロール フォーミング工程(Friedrichshafen のZeppelin 博物 館にて著者撮影)
図6 ツェッペリン飛行船骨格の一部とフレームのロール フォーミング工程(Friedrichshafen のZeppelin 博物 館にて著者撮影)

一方のドイツは,1914 年までにジュラルミンで部品が製
造可能なレベルになり,代替案として考えられていたマグネシウム合金より優れていたことが証明されたため,このアルミニウム合金は1914 年,独海軍Zeppelin飛行船用に規格登録され,1914 年のLZ26からジュラルミンが使われ,1916年までに720 トン生産された。

図6 はFriedrichshafen にあるZeppelin 博物館に展示されている飛行船の骨格とそのロール成形工程を示している。Mayfly 号の失敗もジュラルミンのロール成形技術にあったようである。Mayfly号の製造に当たっては,ドイツで基本形状に加工された材料をイギリスに輸入したが,これらの75%は所定の形状にロール成形ができていないために用いることができなかったといわれている。ジュラルミンが飛行船に採用されるにはロールフォーミングの加工技術も進歩する必要があった。

図6 Zeppelin 飛行船LZ30 の内部の骨格構造(外皮を 覆った後で,ガス嚢が装着される前の状態)(D. H. Robinson: The Zeppelin in Combat, Schiffer Publishing, (1994), 21.)
図6 Zeppelin 飛行船LZ30 の内部の骨格構造(外皮を 覆った後で,ガス嚢が装着される前の状態)(D. H. Robinson: The Zeppelin in Combat, Schiffer Publishing, (1994), 21.)

飛行船の内部構造を図6 に示す。この図はL30 の船体の内部である。外皮を覆った後で,ガス嚢*)の装着する前の状態である。ジュラルミンを用いた複雑な骨組みがわかる。1 機あたりジュラルミンは約9 トン使用され,1914 年から1918 年の間にZeppelin 船88 隻,Schütte-Lanz 船20 隻が建造された。Schütte-Lanz 飛行船建造会社はZeppelin 飛行船建造会社のライバル会社で,木材とベニア合板と接着剤で接合させた骨組みを持つ硬式船を作ったが,水に弱い構造的な欠陥があったため主として陸軍で用いられた。1918 年以後のSchütte-Lanz 船には,木材に代わってジュラルミン,主としてパイプが多用された。

 

*) 初期の飛行船のガス嚢は,木綿布の内面にゴムを薄く塗り,その上に牛の盲腸を切り開いて加工したゴールドビータース・スキンを特殊なにかわで一重または二重に貼り,さらにその上に塗料を塗ってガスの漏洩を少なくしたものである。1 頭の牛から得られる盲腸の大きさ700×150~1000×250 mm であるから,大型硬式船1 隻,例えば16 個のガス嚢を持ったR101(イギリスの硬式飛行船)に必要な牛の盲腸は約15 万頭分とのことである。

表1  Zeppelin飛行船の仕様と骨格に使用された材料(P. W. Brooks: Zeppelin: Rigid Airships, 1893–1940, Smithsonian Institution Press, (1992), 58.)
表1 Zeppelin飛行船の仕様と骨格に使用された材料(P. W. Brooks: Zeppelin: Rigid Airships, 1893–1940, Smithsonian Institution Press, (1992), 58.)

Zeppelin 飛行船と第一次世界大戦

図7 Essex州Little Wigboroughで不時着し焼却された L33 の残骸
図7 Essex州Little Wigboroughで不時着し焼却された L33 の残骸

 

第一次世界大戦では,ドイツは,イギリス,フランスに対 して飛行船を用いた空爆を行った。London の初空襲は 1915531日の深夜に陸軍のLZ38により行われた。1915年 から1918年の間の襲撃回数は,Parisでは3回であったが,London51回に及んだ。London 空襲で最大のものは 191692日の深夜に行われた。この日は一度に陸海軍の飛行 船16隻がLondon とその周辺を襲い, 460 発以上の爆弾を投 下した。戦争が長引くにつれて,イギリスも高射砲や戦闘機 で反撃し撃墜される飛行船も増えてきた。923日は 12 隻 が出動し,その中で,Super Zeppelin(全長 189 m,最大直径 24 m) と呼ばれる海軍の L30, L31, L32, L33 が London を爆撃 した。この中の L33 は対空砲火と戦闘機の攻撃により北海 を越えて帰還するのは不可能と判断し, 24 Essex Little Wigborough に不時着した。乗員たちは船体の焼却を試みた がかろうじて一部を燃やすことができただけだった。7 Essex 州で不時着し焼却された L33 飛行船の残骸である。

 

図 8 波板状ジュラルミンを使用した全金属製旅客機 JunkersF.13(©2006 Andi Szekeres)
図 8 波板状ジュラルミンを使用した全金属製旅客機 JunkersF.13(©2006 Andi Szekeres)

 イギリスの技術者はその骨格を調査し,後日,英国の飛行船R33および R34 を建設する際の基礎とした 。アメリカや日本も Zeppelin 飛行船の残骸を入手して,飛行船の製造を始めた。一方で,この飛行船による爆撃を阻止するために戦闘機の性能も向上した。

ドイツでは,ジュラルミンは飛行船だけでなく航空機にも採用され,ドイツの Junkers 社は 1917 年に単発複葉攻撃機 J4 に初めてジュラルミンを使用し,1919 年には波板状ジュラルミンを使用した全金属製旅客機 F.13( 8)も開発している。なお,Zeppelin 1917 3 月肺炎がもとで急逝している。平時であれば国民的英雄として盛大な葬儀が催されたであろう。

 

第一次世界大戦後の飛行船

図 9 機体側面にオリンピックマークを配した Hindenburg 号
図 9 機体側面にオリンピックマークを配した Hindenburg 号

 第一次世界大戦後は,飛行船は高高度で航続距離が長く,重量物を運べるのが長所 (有効塔載量は LZ127で 30トン

LZ129で 88トン) で,郵便や旅客輸送の手段として活躍する。1929年,全長 236.6 m Graf Zeppelin (LZ127)号 Zeppelin の夢であった世界一周を果たす。Friedrichshafen を出発し,シベリアを横断後,日本の霞ヶ浦の海軍基地にも寄航し,次の寄航地,アメリカの Los angels に向かった。1933Hitler が政権に就くと飛行船が対外宣伝に効果抜群と考え,多額の資金援助を与え,さらに大きな Hindenburg 号(LZ129) を製造し,1936年完成した。全長 245.0 m,直径 41.2 m,ガス嚢 16 個,ダイムラー・ベンツ製の 1150 馬力のディーゼルエンジン 4 基を搭載し,船体の断面は正36 角形で,乗員 40 名,乗客 50 名が乗ることができ,その船内は,客室,食堂,ラウンジ,トイレ,シャワールーム等を備え,ラウンジにはアルミニウム製のピアノまで積み込んだ近代的な設備であっ た

 

図10 Hindenburg号の爆発
図10 Hindenburg号の爆発

五輪のマークを施し た Hindenburg 号( 9) は同年開催されたベルリンオリンピックをはじめ,ナチスの 国威発揚に貢献したが,1937 年,New Jersey Lakehurst 海軍飛行場で着陸寸前,「Hindenburg 号の悲劇」と呼ばれる爆発・炎上を起こした (図10)。この発火の原因は静電気放電説が有力である。この爆発と第二次世界大戦の勃発により飛行船の時代は終了する。航空機の速度が向上し飛行船を上回るようになったためで,ナチスドイツではすべての飛行船は解体され,航空機の機材に転用された

小括

ジュラルミンの発明は1906年偶然Wilmによって発見されたかもしれないが,最初に述べたように時代背景を考えると発見は必然であったとも言えよう。結果論かもしれないが,約25年後の1931年に発明された24S超ジュラルミンはMg量を高々1%増やしたにすぎないのであるが,何故Wilmはそこまで到達できなかったのであろうか。特許では2%Mgまで許容しているにもかかわらずというのが,これを執筆していての素朴な疑問である。逆に24Sを発明したアルコアは何故できたのであろうか。詳細については第二回の超ジュラルミンで考察したい。