帰国して,アルミニウムの原料に関してそれまであまり関心を持っていなかったことに気がつきました。図書にあるアルミニウムの製錬に関する本を調べていると,森永卓一博士の「アルミニウム製錬」(日刊工業新聞社,1968年発行)に出会いました。当時,森永博士については,鋳物関係や非鉄金属に関する著書が多い方としか知りませんでしたが,アルミニウム技術史を調べていくうちに戦前の満州軽金属で満州で多く産出する礬土頁岩からアルミニウムを製造するための生産技術確立に大きな貢献をされた方だということがわかりました。
この辺の経緯については,軽金属の66巻3月号136頁(資料室にも添付した)に書きましたので参照していただければと思います。森永博士の「アルミニウム製錬」の3頁の脚注に「著者は1961年6月末に,この地(レ・ボー)を訪れた。」とあり,何歳の時だろうと思い,巻末の著者略歴を見ますと,1905年生まれとあるので56歳の時に訪れたことになり,奇しくも著者と同じ年齢で同じ6月に訪れていることに驚きを覚え,何かしら因縁のようなものを感じました。
レ・ボーを訪問してどのような感想を森永博士が持たれたのか知りたくて,調べていくと,アルミニウム協会に東京工業大学を60歳で停年退官された時に発刊された随想集「火鍋子」があることがわかりました。この本の「欧州そぞろ歩き」の中で「1961年第28回国際鋳物会議が6月19日からオーストリア国ウィーン市で開催されるので,これに出席し,引き続いて欧州各国の研究所および工場を見学し学会ならびに業界に多くの寄与と示唆を与えたいというのが目的である。」と書かれた一文があり,この一環としてレ・ボーを訪れたことがわかりました。シャムベリーのペシネー社を訪問後アヴィニョンまで列車で行き,その後はタクシーでセントレミーとレ・ボーを訪れています。レ・ボーについては「この村の人口は約3000人,ほとんどの家がお土産屋で,それによってその日の生活をたてているようだ。・・・なんとか観光客を集めて村の繁栄(?)を計画しているのだろうが,荒涼殺伐のこの地が観光地としてのびる可能性があるのか,どうか心配になる」と書いています。45年後に小生が訪れても一応観光で成り立っているので,それなりの集客力はあるのであろうと思われます。肝腎のボーキサイトについては「ボーキサイトの採掘はこの地区ではほとんど行われなかった」とだけあるのみで,博士は結局ボーキサイトの発見地のレ・ボーの現状が知りたかったのかと思います。博士と小生のレ・ボーに関する感想の違いは製錬に関するバックボーンの違いかなと思っています。
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