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超々ジュラルミンと零戦の出会い

図1 堀越二郎
図1 堀越二郎

1937年10月6日,三菱重工業名古屋航空機製作所の堀越二郎は課長からカナまじりの和文タイプで打たれた一通の書類を受け取った。それは,「十二試艦上戦闘機計画要求書」(零戦の試作機)であった。堀越は「この要求書は,当時の航空界の常識ではとても考えられないことを要求していた。もし,こんな戦闘機がほんとうに実現するのなら,それはたしかに,世界のレベルをはるかに抜く戦闘機になるだろう」と述べている。 堀越はこの機体の設計の問題点を四つに整理していた。第一にエンジンの決定。第二にプロペラの選択,第三に重量軽減対策,第四に空力設計,つまり機体の空気抵抗を少なくし,同時に理想的な安定性,操縦性を実現することであると。第三の重量軽減対策では,一律であった安全率の見直しや,グラム単位での重量軽減のために,「肉落とし」と称して,強度に関係のないところをくりぬくことも行われた。重量の軽減には,このほか,どのような材料を使うかということもおおいに関係がある。 従来のジュラルミンを更に改良したものか,あるいは,別のもっとすぐれた軽い金属はないだろうかを堀越が考えていたところに住友のESDとの出会いがあった。

 

 

 

「ある日,会社の材料購入を担当している木村技師が,堀越氏の机にぶらりとやってきて,次のような話をしていった。『堀越さん,いま住友で非常に強い新しい合金ができかかっているらしいですよ』と。話によれば,従来のジュラルミンの成分を少し変えて,強度の高い材料を開発し,試験的に生産に入れる段階だという。私はこの話におおいに興味をそそられた。そこで,住友金属に問い合わせると,担当者が直接私に説明しながら,実物を見せたいという返事がきた。早速,大阪の住友の工場に飛んでいって,五十嵐博士と小関技師から『60kg/mm2の強度があることについては,住友として責任を持って保証できます。海軍の材料規格にはまだ採用されていませんが,時期割れの問題は,押出形材に関する限りすでに技術的には解決しています』との説明を聞き,実物を見せてもらっているうちに,私は,これは使えるぞ,と判断した。そして,この新材料を使用するにあたって,注意しなければならない点をよく聞いてきた。私は,さしあたり,主翼の桁だけに押出形材を使うとして,大まかに重量を計算してみると,30kgは軽くなることがわかった。そこで,会社からこの新しい金属の使用を航空本部に願い出た。すると,航空本部でもすでにこの金属に注目しており,許可する一歩手前まで来ていたとのことだった。海軍側はむしろ願い出を喜んで,この新材料の使用を認めてくれた」。

 

(注)堀越二郎

 1903年6月22日,群馬県藤岡市に生まれる。1924年東京帝国大学工学部航空学科に入学。1927年東大航空学科第五期生の9人の一人として卒業し,同年三菱内燃機株式会社に入社。1929~1930年,欧米視察。ドイツのユンカース社,アメリカのカーチス社にて機体技術を研究。1932年,七試艦上戦闘機の設計主務者に抜擢される。七試艦戦は失敗に終わったが,その大胆な挑戦は低迷していた三菱に技術的飛躍をもたらし,1934年,再び九試単座戦闘機の設計主務者に任じられた。制式採用された九六式艦上戦闘機は海軍の期待をも上回る高性能を実現して傑作機となり,1937年,十二試艦上戦闘機の設計主務者となり,零式艦上戦闘機を開発した。その後,1940年,十四試局地戦闘機(雷電),1942年,十七試艦上戦闘機(烈風)の設計主務者となった。1944年12月,病に倒れ,約半年静養。1945年三菱重工業参事。1963年,新三菱重工業参与で退職。1964-1965年,東京大学宇宙航空研究所講師。1965年東京大学工学博士授与。1965-69年,防衛大学教授。1972-73年日本大学理工学部,生産工学部教授。1973年勳三等旭日中綬章。1982年1月11日逝去。享年78歳。