五十嵐勇博士(図1)と聞かれてお分かりになるのは,年配の方々や住友の関係者であろうと想像される。また超々ジュラルミンも同様であろうと考えられる。ジュラルミンは聞いたことはあるが超ジュラルミン,超々ジュラルミンについて正確に答えられる人は少なくなったのではないかと思われる。
最近,小職は弊社の新入社員教育では住友軽金属のアイデンティティでもある超々ジュラルミンの歴史の語り部となっている。平成23年は軽金属学会60周年記念行事が各支部で催され,小職が支部長を務めている東海支部,さらには中四国支部,九州支部で日本が発明した超々ジュラルミンについて語る機会を得た。特に,平成23年10月22日開催された九州支部主催「軽金属学会60周年記念シンポジウム」では「肥後が輩出した五十嵐勇博士と超々ジュラルミン」と題して講演を行なったが,支部長の河村能人熊本大学教授が,五十嵐博士が熊本県出身ということで,熊本県やマスコミ関係者にPRしていただき,学会関係者以外も参加されたようだ。五十嵐博士の甥にあたる方や親戚の方々も講演会に参加されたということが講演後に分かった。残念ながら,帰られた後でお会いできなかったが,その後,甥にあたる五十嵐聖氏とメールでやり取りをし,平成24年度の軽金属学会春期大会が九州大学で行なわれたので,これを機会に熊本県玉名市にある五十嵐博士の生家を訪問することとなった。
メールのやり取りで最初に驚いたのは,生家がお寺でその長男として出生したということである。どこにもそのような記録は残っていなかったように思う。しかし,本人や先輩たちが書かれたものを読むと,ものの考え方や生き方で他の研究者と何かが違うなと思っていた疑問が氷解した気がした。
五十嵐博士の生家は,東光明寺(ひがしこうみょうじ)(図2)で,浄土真宗大谷派(本山:東本願寺)に属している。東光明寺は東本願寺(大谷派)の光明寺という意味で,近くに西本願寺系の西光明寺もある。現在の玉名市溝上に承応3年(1654年)開基された由緒あるお寺である。現在は五十嵐勇博士の末弟秀雄氏(第12世住職)のご長男で,勇博士とは甥にあたる五十嵐聖氏が第13世住職となられている。五十嵐勇博士は父,善立(第11世住職)と母,ミキの三男四女の長男として1892年出生された。博士は先妻いきとの間に一男三女を儲けられたが,先妻は1929年,33歳で早世されたため,後妻シヅエを迎えられた。東光明寺には先妻のいきの墓が残されている。晩年,博士は後妻とともに熊本市島崎で余生をおくられ,1986年他界され別のお寺の墓に葬られたとのこと。博士の長男の全(たもつ)氏は秋田大学鉱山学部講師として金属の研究をされ,1960年頃には「軽金属」にも勇氏と連名で論文を執筆されたこともあったが,2003年他界され,三人のご息女も亡くなられたとのことである。
図3は東光明寺本堂前で1928年頃撮影した博士(後列左から二人目)が若かりし頃の五十嵐家の写真で,今回五十嵐聖氏の許可を得て複写した。聖氏と直接お会いし,講演を聞きに来られたのは,河村先生からの要請かなと思っていたら,玉名市の広報記事に五十嵐勇の名前があることに気がついたからとのこと。偶然とはいえ,記事を読まれることがなかったら今回の訪問はなかったのかと思った。河村先生の県庁やマスコミ関係者への案内に感謝したい。
その後の五十嵐博士については,住友軽金属年表や五十嵐勇年譜もあり詳らかにされている。1913年広島高等師範学校卒業後,台湾の中学で教鞭を執られた。1919年京都帝国大学に入学,1922年同大学理学部物理学科を卒業後住友合資会社に入社し,同伸銅所に勤務された。同年5月より翌年7月まで,住友家が本多光太郎博士の発明したKS鋼や研究所設立を支援した関係からか,東北帝国大学金属材料研究所に留学し,所長の本多光太郎博士に師事された。金属材料研究所は,1922年その前身の鉄鋼研究所が研究対象を鉄と鋼だけでなく銅合金や軽合金などにも拡げるために改称されたものである。住友金属からも多くの研究者が派遣された。
1939年,「航空機用材としての軽合金の研究」で工学博士を授与され,1941年名古屋製造所研究部長,1943年住友金属工業株式会社金属研究所長兼伸銅所研究部長を務めた。金属研究所は伸銅所と名古屋軽合金製造所の研究技術部門を横断的に統括するために1943年設立された。1945年技師長兼名古屋製造部技術部長を歴任し,1946年退社された。その後,東北帝国大学に講師として招聘され,翌年工学部教授,1951年秋田大学鉱山学部教授を兼務,1958年岩手大学教授,1962年停年により退職され,住友軽金属工業株式会社研究顧問となられ,1970年顧問を退かれた。この間,1968年勲三等旭日中授章,1974年公益財団法人本多記念会の本多記念賞が授与された。
図4は東光明寺に保管されていた五十嵐勇博士の学位記である(今回この学位記によって,大阪帝国大学工学部から学位が授与されたことがわかった)。
五十嵐博士の発明,超々ジュラルミンについて簡単にまとめると次のようになる。五十嵐博士は住友に入り,優秀な先輩がおられたため,すぐにはジュラルミンや超ジュラルミンの研究開発にはつかず,他の耐食性アルミニウム合金,耐熱性アルミニウム合金鋳物,マグネシウム合金を扱っていた。しかし先輩方が偉くなったため,超ジュラルミンや超々ジュラルミンの開発に取り組むこととなった。そのうちに他社が高強度のトム合金を出してきたことや,海軍から米国の超ジュラルミンよりも高い強度の合金を作れとの要請があり高強度アルミニウム合金の開発に取り組まざるを得なくなった。最も重要な問題は時期割れ,今で言う応力腐食割れが抑制できるかどうかであった。ここで合金が割れるための評価方法を考え,腐食環境や負荷応力でも割れにくい合金の探求が始まった。その結果,クロム添加で抑制できることを見出し,超々ジュラルミンESD(Extra Super Duralumin),Al-8%Zn-1.5%Mg-2%Cu-0.5%Mn-0.25%Cr合金を発明した。この合金が零式艦上戦闘機の主翼に採用され,戦闘機の性能向上に大いに寄与した。この合金はいち早く米軍に察知され,アルコアに類似合金の7075を作らせた。これが戦後の世界の代表的な航空機用アルミニウム合金となり,現在でも多く使用されている。
現在の聖氏も50歳までは日立系の会社の技術者であったが,家を継ぐために戻られたとのこと。檀家を多く抱えているお寺を継がざるをえないのは職人と違って大変なことだと思った。ただ小さい頃,教え込まれた仏の教えや人生観はそう簡単には変わらないように思う。「大自然の理法」に興味を持ち,それを追求しようとして京都大学理学部物理学科に進学したこと,栄誉を目指して研究をしていたわけではなく,自然を探求する中で深く掘り下げた結果,発明できたこと,未熟な理論にしばられないこと,思った結果と矛盾した事実が示されたときにのみ進歩があり発展があると考えていたこと,自分の発明した超々ジュラルミンについては,その結果を自慢することなく謙虚であったことなど,その生き方には学ぶところが多い。帰り際に,聖氏からは仏教の「縁起の理法」を教わり,これが博士の人生観にあるのかなと思った。
(以上,「軽金属」第62巻,第12号 (2012), 502-503より転載,一部修正)
詳細は資料室・歴史の講演スライドを参照のこと。
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国領 泰宏 (木曜日, 25 10月 2018 06:49)
一般には、アルコアが作ったように言われますが、宮崎駿「風たちぬ」でもフランジにすり替えていますが、明らかに1939年海軍の河村大佐が大阪の住友金属の五十嵐博士が開発者のESDが、最初の実用化に成功して零戦に採用された事実です。
高橋仙之助先生にもお話を聴いています。
吉田英雄 (木曜日, 25 10月 2018 09:17)
コメントありがとうございます。少々補足説明をさせていただきます。7075(アルコア呼称75S)は1943年アルコアが開発した合金ですが,この合金の元になったのは,1935年住友金属の五十嵐博士が研究開発を開始し,1936年特許申請した超々ジュラルミン(ESD)です。米軍は1942年無傷の零戦をアリューシャン列島で捕獲し,その材料の解析結果から主翼に世界最高強度の超々ジュラルミンが使用されていることを知り,アルコアに同等の合金を作らせたのが75Sと言われています。この合金の開発研究を住友金属に命じたのが海軍航空廠の川村宏矣機関中佐です。宮崎駿「風立ちぬ」は1934年の九試単座戦闘機の頃の話で,まだ超々ジュラルミンが発明されていない時代です。詳細は本ホームページ内の「材料開発の歴史,超々ジュラルミン本史(1)」をご参照ください。
片山 泰 (木曜日, 10 10月 2019 20:44)
小生東京オリンピック生まれ。と言っても、当然、今おなかの中から書いている訳ではありません。NHKに当時の写真を投稿しようと、認知症の母八十四歳に聞きましたら、「五十嵐様にお世話になった」と、私が初めてお伺いするお名前が。私の父潔は、住友軽金属工業株式会社伸銅品部長で、海軍経理学校戦友会では、超々ジュラルミンの話を良くしておりました。伯父滉次は特攻帰り。私は東芝でアルミ板金のパソコン作りに生涯を捧げました。アルミ製新製品アイディア募集に駆り出されたこともあります。
吉田英雄 (月曜日, 14 10月 2019 08:25)
コメントありがとうございます。
お父上は存じあげませんが会社の大先輩ですね。管理職OBの軽泉会の名簿を拝見しますと平成12年に逝去されていますね。海軍の出身ということであれば,超々ジュラルミンに対する思いは人一倍強い気がします。超々ジュラルミンあっての零戦でしたから。パソコンなどのIT機器へのアルミの適用は現在もなお続いています。この分野はユーザーの要求が厳しいので大変ですが,それを打開することで技術の進歩があると思います。