1.はじめに
ドイツには四つのツェッペリン博物館があることを小前ひろみ著「とってもドイツ博物館めぐり」(東京書籍,2000年)で知った。2012年から2013年にかけて,本誌に12回(2012年7月~2013年7月)の連載で「超々ジュラルミンと零戦」という記事を執筆したが,超々ジュラルミンを語る前にジュラルミンあるいは超ジュラルミンとは何なのかを読者に明らかにしておく必要があった。このジュラルミンが開発されて最初に用いられたのがツェッペリン飛行船である。第一次世界大戦の時,海軍からロンドン近郊で墜落したツェッペリン飛行船の骨材の分析依頼が住友になされ,その結果を基に日本でもジュラルミンを製造するようになった。その骨材の一部(図1)が旧住友軽金属,現在のUACJ技術開発研究所(名古屋センター)に大事に保管されている。ツェッペリン飛行船の残材は旧住友軽金属のアイデンティティを示すものでもあった。
しかしながら,ツェッペリン飛行船についてはあまり詳しくはなかったので,国内外の文献やネットを中心に調べることにした。最近の本では牧野光雄著「飛行船の歴史と技術」(成山堂書店,2010年)がコンパクトながらよくまとまって書かれている。この本の中で,ツェッペリン飛行船LZ5から骨組みの材料にジュラルミンが用いられたとある(同書,p.43)。LZ5の初飛行が1909年5月26日とあるので,製造は1908-1909年頃と考えられる。先の原稿を執筆する際は,ジュラルミンがまだ工場試作の段階でも飛行船に使用することもあるかもしれないと思っていたのでそのまま引用したが,これは本当に正しいのかどうか疑問に思っていた。ジュラルミンの開発の歴史からみると,1906年にウィルムにより時効硬化現象が発見され,1908年デュレナ・メタルヴェルケ社でのジュラルミン板の工場試作が行われた。1909年ウィルムとデュレナ・メタルヴェルケ社の間でこの新製品に対する商品名の相談があり,ウィルムは当初ハルトアルミニウム(Hartaluminium)を提案したが,国際市場を考え,フランス語で硬いという意味のDurを用いてDuraluminにしたと言われている(本誌,Vol.42 (2012),No.8,p.44 参照)。1910年,デュレナ・メタルヴェルケ社はジュラルミンを12.75トン生産したが,そのうち10トンをヴィッカース社に供給した。英国のヴィッカース社(Vickers Company, その後The Vickers Sons & Maxim Ltd.)は1909年,剛性の高い英海軍飛行船 ”Mayfly” の建造を開始したばかりであった。
ドイツではフェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵(Ferdinand Adolf Heinrich August Graf von Zeppelin)によって, 1898年,飛行船建造会社が設立された。ツェッペリンの飛行船の構造は従来のエンベロープに水素を詰める軟式飛行船ではなく,金属で骨組みを作り,外皮(麻布か木綿布)で覆ってその中に水素ガスを詰めたガス嚢を数個並べるといった硬式飛行船であった。船体の骨組みは鉄で作るつもりだったが,重くなることが懸念され,アルミニウムが用いられた。種々の困難を乗り越えて,1900年6月,全長128m,直径11.65mのツェッペリン第一号硬式飛行船LZ1(図2)が完成した。
組み立てはフリードリッヒスハーフェン (Friedrichshafen) に近いボーデン湖(Bodensee)上に浮かぶ格納庫で行われた。このLZ1は不幸にも400m上昇し,15分ほどボーデン湖上を飛び回ったところで,異常が生じ,船体が折れ曲がり墜落した。この失敗で,「狂人伯爵」とまで陰口をたたかれたが,それにめげることなく,1905年LZ2を建造した。そのころ皇帝は自国の海軍がイギリス海軍に遅れを取っていることに懸念を抱き,空飛ぶ戦艦ともいえるツェッペリン飛行船に期待をかけて国費を投じることを決め,1906年LZ3,1908年LZ4が建造された。これらの飛行船の成功とともにツェッペリン伯爵は一躍「国民的英雄」となった。1908年9月,飛行船建造会社「ツェッペリン飛行船有限会社」をフリードリッヒスハーフェンに設立し,この新会社で最初に作られたのがLZ5であった。
牧野氏によるとこのLZ5の骨組みにジュラルミンが初めて用いられたことになる。先ほど述べたように1908年には試作材が出来たばかりである。合金の名前も決まっていない段階である。素材もどのように製造したのであろうか。また,1900年にできたLZ1に用いられたアルミニウムはどのような合金であったのであろうか,非常に興味があるところだ。このような疑問を抱きながら,何か資料があるかもしれないと思い,現地現物主義でとりあえずドイツに行くことにした。ドイツにはツェッペリン博物館があることは知っていたが,最初に紹介した本には4つあることがわかった。2012年10月に,休暇をもらって家内とドイツに行ったときは,時間の関係で北にある博物館だけは行くことが出来なかった。幸い,2014年6月,ノルウェー,トロンハイムでアルミニウム合金国際会議ICAA14が開催され,講演発表するために参加したが,その帰りに,ドルトムント大学訪問も兼ねてドイツに行く機会ができ,残りの四つ目のツェッペリン博物館を訪問することができた。この四つのツェッペリン博物館とこの訪問で知ったアルミニウム製のピアノについて述べる。最後にはじめの疑問,ジュラルミンはいつからツェッペリン飛行船に用いられるようになったか,それまでの材料は何であったのか明らかにしたい。
2.フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン博物館
2012年10月7日(日),セントレアからルフトハンザでフランクフルトに,フランクフルトで一泊し,翌日ミュンヘンに同じくルフトハンザで行ったが,結構遅れて飛び立ったので予定より一時間以上遅くなった。ミュンヘンの新市庁舎の仕掛け時計の動く12時に間に合うよう飛行機を選択したが間に合わず,結果的にはジャーマンレイルパスも持っていたので鉄道の方が確実だったかもしれない。新市庁舎地下のRatskellerで昼食をとった後,壮大なレジデンツを訪ねた。当初の予定ではもっと多くの博物館を見学する予定であったが,レジデンスが大きすぎて他に行くことは無理だとわかった。ミュンヘンは10月8日までオクトーバーフェストで,その最終日に当たっていてネットでの安いホテルの確保が難しかった。何とかホテルは予約したものの,価格の割に小さなホテルだったので現地でホテルを探すのに苦労した。翌日9日雨の中,訪ねたドイツ博物館も壮大でさすがに技術立国らしく古代から最新の技術までわかりやすく展示されていた。とても一日ではまわりきれないくらいで,日本の科学館などスケールにおいても展示内容においてもまだまだ到底及ばないと思われた。午後,鉄道でスイスとの国境にあるボーデン湖畔にあるフリードリッヒスハーフェンに向かった。ここに目指す第一のツェッペリン博物館がある。宿泊先のホテルにスーツケースを預け,駅前のZeppelin Museum Friedrichshafenに向かった。
入り口にはツェッペリン飛行船を模したモニュメント(図4)があった。後ろからみると子供の滑り台になっていた。 博物館内部に入ると,骨格の部材の残材やマイバッハのエンジンを搭載したゴンドラとプロペラの残骸が並べられていた。骨材の残骸は住友で保管されていたものと同じであった。さらに行くと飛行船の実物大の断面や客室や当時の骨格の加工技術やが展示されていた。骨格は板のロールフォーミングで成形し,リベットで結合していることがわかった。板厚は1mm以下で,弊社に残されている骨材も約0.5mm程度である。また重量軽減のため丸く打ち抜いている。客室も相当広く,食堂,ベッドやトイレも完備されていた。水素ガスを詰めていた気嚢,これは木綿布の素地の内側にゴムを薄く塗り,その上にゴールド・ビータース・スキンを特殊なニカワで1重または2重に貼った物で,このゴールド・ビータース・スキンは牛の盲腸を切り開いて加工したもので,16個のガス嚢を持った英国のR101飛行船では15万枚も必要としたと牧野氏は書いている。是非これを見てみたいと思ったが,現存していないとのことであった。ここのショップで数冊の本と土産ものを買い,ホテルに戻った。博物館の裏手は高速船の発着場となっていて,外の天気は曇りがちで晴れていれば,対岸のアルプスが拝めたのにと思った。
3.メアスブルグのツェッペリン博物館
翌朝10日,曇りがちで時々小雨が降る天気の中,フリードリッヒスハーフェンからメアスブルグ(Meersburg)までバスで行き,30分ほどで着いた。メアスブルグは湖上に面した古城を中心に観光地となっている。バスを降りて,道がわかりにくかったので,行く先々でツェッペリン博物館までの道を聞いたが,ほとんどの人が知らないとかもう潰れたよとの話を聞いて,大丈夫かなと思いながら,地図をたよりに古城まで行き着いた。古城の前の土産物店で聞いたら,その裏手が博物館になっていて,階段を上がった二階にあった(図8)。
10時にはオープンと案内書にはあったので10時過ぎに行ったが閉まっていて,これは潰れたのかなと思っていたら,しばらくして,あの小前氏の「博物館めぐり」に載っている「世話好きで熱血漢の」女性が現れ,店に案内してくれた。この店は日本人の訪問客が多いらしく,日本語のパンフレットも用意されていた。盛んに「ヤポン,ヤポン」と言ってツェッペリン号が日本に行った時の資料を示してくれました。しかしながら,ここは個人が経営する博物館で,個人的に収集した約一万点のコレクションがあるが,筆者の興味を引くものは少なかったので,時間の都合もあって,向かい側の古城に行くことにした。この古城の中には中世の生活品や武器などが数多く展示されていて,ヨーロッパ中世を舞台にファンタジー小説を書いている家内は非常に喜んだ。相変わらず天気は回復せず,対岸のスイスもみえなかった(図9)。メアスブルグからフリードリッヒスハーフェンに戻り,黒い森(Schwarzwald)を見てみたいために少し遠回りでオフェンバッハ,カールスルーエ経由でシュトゥットガルトに向かった。黒い森も列車から見る風景は日本の長野などの風景とあまり変わらないように思えた。もちろん環境保全という面ではドイツの方が徹底していると思うが。翌11日は少し曇っていたが,午前中には霧の中に浮かぶ雄大なホーエンツォレルン城(Burg Hohenzollern)と,午後には学生時代に読んだ“Alt-Heidelberg”で有名な大学の町ハイデルベルグとハイデルベルグ城(Heidelberger Schloss)を楽しんだ。
4.フランクフルトのツェッペリン博物館
12日シュトゥットガルトから鉄道でフランクフルトに向かい,第三のツェッペリン博物館に向かった。フランクフルト空港に近いツェッペリンハイムというところにある。フランクフルト空港は元々,ツェッペリンがフランクフルトにドイツ飛行船旅行会社(DELAG)を設立したところから始まったといわれる。社員のための住宅地を空港近くの森の中に作り,ツェッペリンハイムと名付けた。
閑静な住宅地の中にツェッペリン博物館はあった。フランクフルト中央駅からローカル鉄道(Sバーン)で約15分,駅から徒歩15分程度で目的地の博物館に到着する。最初は方角があっているかどうか不安であったが,そのうちに標識があり安心する。館内は比較的こぢんまりとしていて,展示物もあるが,写真による説明が多いと思った。興味深いのはジュラルミンが使用されたかもしれないLZ5の骨材の一部が展示されていたことである。これを分析すれば何が使用されていたかわかるのにと思った。さらにパイプが使用されているではないか。果たしてジュラルミンでできるだろうか。このころのシームレス管の製造技術はどの程度のものだったのかあらためて調べてみようと思った。また1937年,爆発炎上したHindenburg(LZ129)号の残材も展示されていた。表面は塗装が火災で焼け残っているように思えた。もし塗装されているとしたら,どのような塗装がいつから施されたかも興味深い。
少し時間があったので,館内で流していたVTRを眺めていたら,飛行船の中に突然,ピアノが映っていて,黒くはなく銀光りしているように思え,巻き戻してみて再度確認し,動画をカメラに収めた。アルミニウムのピアノだと確信して戻って調べることとした。飛行船に関する本なども結構販売していたので数冊買って帰った。
宿泊先のシュトゥットガルトに戻ろうとしてフランクフルト中央駅に行くと,シュトゥットガルト行きの列車が予定の時間になっても来ない。寒いホームで散々待たされた挙げ句,予定の列車が来ないとわかったのは3時間後で,仕方なくその後の他を経由した列車で帰った。この間,駅の案内板や駅員にいろいろ訪ねてもさっぱり了解を得ない。次のシュトゥットガルト行きの列車も来ない。ドイツ語だからひょっとすると聞き逃したのかもしれないが,電光掲示板には何も案内がなく,乗客が放置されることなど日本では考えられない。ドイツの鉄道は信頼できると思っていたのにとても残念だ。
5.アルミニウム製ピアノ
さてホテルに戻って,アルミニウム製のピアノについてインターネットで調べると,Wikipediaでは,
(1)「最初の年の運行期間中、ヒンデンブルクの音楽サロンには特別なアルミニウム製のブリュートナー・グランドピアノが置かれていた。そのピアノは航空機で使用された最初のピアノであり、ラジオで初めて「空中コンサート」を放送した。このピアノは重量を節減するため、最初のシーズンの後、取り外された。」とある。
(2)「ライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが黄色の豚革で上張りした、重量わずか180キログラムの特別仕様のアルミニューム製グランドピアノが設置されていた。だが、搭載されたのは1936年5、初の北米航行の際であった。ピアノを置く場所を確保するために4つの円卓が取り去られた。」(http://www.air-ship.info/Waibel31.html),
(3)「ライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが飛行船「ヒンデンブルク」のために特別に調整した有名なアルミニューム製グランドピアノが初めて搭載され、同社の社長であるルドルフ・ブリュートナー=ヘスラーも乗客のなかに居た。航行中にドレスデンのピアニスト、フランツ・ワグナー教授がピアノの演奏会を行い、飛行船上からラジオ中継された。それは航空機上で行われた最初のピアノ演奏会であった。」(http://www.air-ship.info/Waibel41.html)(Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG)
海外ではホームページAirships: The Hindenburg and other Zeppelins
http://www.airships.net/blog/hindenburg-piano が詳しく扱っている。同ホームページでのhttp://www.airships.net/blog/sound-hindenburg-aluminum-piano ではピアノの音も聴くことができることがわかった。帰ってから観たDVD映画「ヒンデンルグ」(1975,ロバートワイズ監督)でもピアノを演奏してナチをからかっているシーンがある。
この時代のブリュートナーのアルミニウム製ピアノが現存しているかどうか詳らかではないが,日本でも山下工業所さんのアルミニウム製バイリンやチェロがあるくらいだから,アルミニウム製ピアノもトライしていただけたらと思った。http://www.yamashita-kogyosho.com/hammered/violin.html#violin02
6.ノルトホルツのツェッペリン博物館
さて,最後の第4のツェッペリン博物館,ノルトホルツ・アエロノーティクム(Nordholz Aeronauticum)はブレーメン(Bremen)から約80㎞北のノルトホルツ(Nordholz)にある。列車でブレーメンから約1時間の距離である。2012年には時間の関係で行けなかったが,体力のあるうちに是非行きたいと思っていたら,意外と早くその機会が訪れた。2014年6月19日,トロンハイムでの国際会議を終え,ドイツに渡り,ブレーメンの音楽隊で有名なブレーメンに宿泊し,ドルトムント大学を訪問した翌日21日に,ブレーマーハーフェン (Bremerhaven)経由でノルトホルツに行った。今回は家内ではなく,研究所の若い研究者たちと一緒である。彼らにとってもドイツのかつての技術を知る上でも絶好の機会でもあると考えた。百聞は一見にしかずである。駅から15分ほど歩いたところに,海軍航空基地があり,アエロノーティクム博物館はその海軍航空基地に隣接していた。小前氏によるとノルトホルツは軍用ツェッペリンの母港であったばかりか軍用飛行船の工場の所在地だったそうで,ここから出撃してロンドンを空爆したとのこと。博物館入口には,ツェッペリン伯爵の像が建てられていた。
内部には実物大に近い模型も含めて各種の模型や写真が数多く展示されていたが,今ではすっかり忘れているドイツ語で書かれているので,詳細は分からなかった。後でじっくり調べるために,代金を支払い,撮影許可をもらってカメラに収録してきた。第一次世界大戦のロンドン襲撃で飛行船から落下させた実物大の爆弾も展示されていた。この爆弾は10㎏から300㎏まであるそうで,殺傷力は現在の爆弾にはとても及ばないが,ロンドン市民を恐怖に陥れたといわれている。ここの展示の中に前述のアルミ製ピアノを乗客が取り囲んでいる写真もあった。なお博物館の中庭には各種の戦闘機などかつての航空機が所狭しと展示されていた。
午後からは,ブレーメンに戻る途中に港町ブレーマーハーフェンがあり立ち寄った。ここには第二次世界大戦で活躍した実物のドイツ軍の潜水艦Uボートが見学できる博物館がある。岸壁に係留されたUボートの内部に入ると,その中心部に数多くのバッテリーが詰まれていることがわかった。まさに現代の電気自動車を見る思いである。当時の潜水艦建造でのドイツの技術レベルの高さに思いをはせブレーマーハーフェンを後にした。
6.おわりに
旅行の本来の目的は,ツェッペリンの飛行船にいつからジュラルミンが用いられたかであったかであるが,四つの博物館訪問では直接的な証拠は見いだせなかった。2012年10月帰国後,旅行で収集した文献やAmazonで購入した文献を調べていると,古本として購入したスミソニアン国立航空宇宙博物館のフェローのP.W. Brooksの書いたZeppelin: Rigid Airships 1893-1940, (Smithsonian Institution Press, 1992)の本の最後に,Note 11(p.187)として,次のような記述があることがわかった。
「Schwarz(注,Zeppelinのコンペチター)はアルミニウム製造業者のCarl Bergから供給された純アルミニウム(un-alloyed aluminum)で二隻の飛行船を建造したと信じられていた。しかしながら,彼なら成分の不明なViktoria合金を用いたことはありそうだ。これに対し,Zeppelinは多分,Bergのアドバイスを受けて,硬い合金と時々言われている亜鉛アルミニウム合金(Zinc-Aluminium alloy)を採用した。Zeppelinはジュラルミンに変える1914年まではどうもこの材料を用い続けたらしい。ジュラルミンというのは時効硬化型のアルミニウムで1908年ドイツのAlfred Wilmによって発見され,1909年の遅くには工業的に実用化された。当時のジュラルミンは同じ重さのアルミニウムに比べて2.5〜5倍の強度を持っていた。1910年当時,飛行船の桁に必要な断面形状を製造することが困難で,当初,Zeppelinはこのため採用を拒否したが,Vickersによって飛行船Mayflyに採用された。1914年までにジュラルミン部品が許容可能なレベルになり,代替案として考えられていたマグネシウム合金より優れていたことが証明された.1920年代の初期,ある段階ではwolfranium(tungstenのこと)やアルミニウム・タングステン合金がジュラルミンと同じ特性を持っていて採用可能と考えられていたが,ジュラルミンの形状がさらに改良され硬式飛行船に続けて用いられることとなった。」
ここで述べている亜鉛アルミニウム合金というのは亜鉛20%程度含んだ合金あるいはさらに微量の銅を含むアルミニウム合金のことである(R.J. Anderson: The Metallurgy of Aluminium and Aluminium Alloys, Henry Carey Baird & Co., Inc, 1925, p.266)。
Wikipediaでは,ジュラルミンが用いられたのは1915年のLZ26とされている。さらに,ツェッペリンの一号機LZ1には純アルミニウムを用いたと書かれている(http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Berg_%28airship_builder%29)。
参考までに,Brooksの本のAppendix 5に飛行船に使用された合金を記した表があったので,添付(図15)する。
以上のように1914年のLZ26からジュラルミンが使われたというのが正しそうである。この点,「飛行船の歴史と技術」で1908年のLZ5が最初だと書かれた牧野光雄先生にお聞きしたいと思い,出版社に取り次いでもらおうと電話したところ,奇しくも小職の上司であった馬場義雄博士と同じ2012年10月に逝去されたとのこと,もっと早く確認をすればよかったと後悔するばかりである。
以上
コメントをお書きください